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ヒットのカギは「不完全性」 ―AKB48とTwitterとシンデレラと伽藍とバザール
完全性に人は惹かれない
ブログをはじめて少しずつ、人が集まりだしたときは死ぬほど嬉しかった。
Twitterで何回もリツイートされたり、はてなブックマークのホットエントリーにでたり、涙が出そうなほど嬉しいメールをもらったこともある。
しかし、徐々に歯車が狂い始めたもの、この頃だった。
ブログのコメントやメッセージに一定の割合でネガティブなものがふくまれはじめたのだ。ポジティブな感想のほうが多く、ネガティブなものの割合はとても微々たるものなのだけど、その一つ一つに僕は傷ついた。
自分の子どもを育てるように大切に書いてきたブログだ。
そのダメージは大きかった。
いつしかソーシャルメディアから目を背け、コメント機能をすべてオフにして、守りに入った。
「ツッコまれないためにはどうするべきか」
「ネガティブな反応が出ないようにするにはどうするべきか」
「矛盾を解消するにはどうするべきか」
僕は「完全」を目指した。
そして、完全には程遠い存在だったけど、完全を目指せば目指すほどに、記事はつまらなくなり、読者は減っていったのだった。
今思えば、「不完全」だったあの頃の方が魅力的だったのかもしれない。
シンデレラを応援する人、引きずり落とす人
僕はブログの記事の品質を落としたつもりはなかった。
いつだって、僕なりに真剣に書いている。
しかし、ネガティブなコメントを残す人たちに嫌悪して、怯え、完全を目指し、クローズしていくほどに、アクセスは減っていった。
そんな折に、ある人物からいわれた。
「人間にはシンデレラを応援する人と、シンデレラを引きずり落としたい人がいる」
確かに、テレビを見れば日常茶飯事だった。
人気者はワーッとはやし立てられたり、ワーッと引きずり落とされたりする。ワーッとどん底を見た人がワーッと脚光を浴びたりもする。
僕はゴクリとつばを飲み込んだ。
「あなたは次のどれかにならなければ、成功はしないよ。(1)純粋なシンデレラか、(2)計算高いシンデレラ、それか(3)シンデレラの脚本家にならないといけないんだ」
僕が黙っていると、その人は続けた。
「まずは、シンデレラになれ。シンデレラっていうのは、"不完全さ"の象徴さ」
AKB48にみる不完全性のエンターテインメント
不完全性は、エンターテインメントである。
AKB48も、勝間和代も、twitterも「不完全性」を全面にだしたエンターテインメントである。
たとえば、人びとはAKB48をみるといろんな反応をする。
「AKB48の誰ひとりとして、名前がわからん!」
「あのセンターの子、どこがかわいいの?」
「ともちん、かわいい!絶対、将来ブレイクする。」
「いや、あっちゃんの方がカワイイでしょ」
「オレの一票で、コリスを1位にするんだ!」
「思春期に初恋に戻ったみたい」
「今、目が合った!」「バカじゃない?」
AKB48は、発展途上のダイヤの原石の女の子の集まりで、モデルのような抜群の美人がいるわけではなく、「不完全性」を帯びている。
深く知れば、ゴールドラッシュで金脈を掘り当てるような楽しさがある反面、パッと見では人が多すぎてよくわからないし、「どこがいいんだ!?」とツッコミどころ満載である。
また、AKB48のファンになることは、ちょっとこっぱずかしい。まるで隠れキリシタンのように振舞ってしまう「不完全性」がある。
そしてトップオタとよばれる熱烈なファンの行動は、ツッコミどころ満載である。
極めつけの総選挙はまさに、シンデレラを作り上げと引き下ろしの熱いドラマだし、外側から見れば、総選挙と言うイベントがツッコミどころ満載だ。
そして、不完全性を備えているものは、ファンが広告塔になるだけでなく、アンチも重要な広告塔となる。
「感動」をつくるには、"期待値"を下げて、"注目"をあげ"体験"させることが大事だが、アンチがその入り口をせっせと作っている。
「AKB、ブスばっかりじゃん、どこがいいんだよ!」
そうメガホンで叫ぶ人がいれば、きっとある人はyoutubeでAKB48を見てしまう。そして、期待をしないでみる。その中から一定の割合で「いや、意外といいんじゃない?」と思う人が現れる。
「AKBは、いかれた宗教だ!」
「日本人の85%はAKBに興味がありません」
きっとDISられる度に、「シンデレラの脚本家」天才プロデューサー 秋元康は、嬉しくて腹を抱えて笑っている。
新規顧客の10人に1人でもリピートすれば、ファンはどんどん大きくなる。やがてティッピングポイントを向かえブレイクする。
「伽藍とバザール2.0」 バグという不完全性
1999年、エリック・レイモンドというソフトウェア開発者が、Linuxの開発方式に驚愕し、「伽藍とバザール―オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト」という論文を書いた。
それまでのソフトウェア開発は、伽藍をつくるかのように緻密かつ完璧な設計のもとに作られていたのに対し、当時から頭角をあらわしていた「Linux」については、まるでバザールのようにごっちゃごちゃで不完全性を許容したソフトウェア開発スタイルがとられていたのである。
そして2010年、いまや、そのLinuxがほとんどのサーバーやスマートフォンの基板を席巻している。
Linux は、ぼくがわかっているつもりでいたものを、大幅にひっくりかえしてくれた。(中略) 一番だいじなソフト(OS や、Emacs みたいな本当に大規模なツール)は伽藍のように組み立てられなきゃダメで、一人のウィザードか魔術師の小集団が、まったく孤立して慎重に組み立てあげるべ きもので、完成するまでベータ版も出さないようでなくちゃダメだと思っていた。
だから リーヌス・トーヴァルズの開発スタイル――はやめにしょっちゅうリリース、任せられるものはなんでも任して、乱交まがいになんでもオープンにする――には まったく驚かされた。静かで荘厳な伽藍づくりなんかない―― Linux コミュニティはむしろ、いろんな作業やアプローチが渦を巻く、でかい騒がしいバザールに似ているみたいだった。
Twitterは、現代版の伽藍とバザールだ。
最小限の、ユーザーに取っては「不完全」なサービスが、インターネットを介した縦横無尽のバザール方式でつながっている。
Twitterが完璧なサービスであれば、これだけの関連サービスの出現やユーザーの広がりはなかった。素人でも思いつく機能がTwitterにはない。広い意味でのバグ(不完全性)を抱えているから、それを補うように、つながり広がる。
「Twitterのどこが楽しいんだ!?よくわからん」
「フォロワー増やして何の意味があるの?」
「なんで140文字だけなの?」
というのも不完全性で、AKB48と同じだ。
Linuxの祖先であるUNIXの世界には、「Worse is better(より悪いほどいい)」という言葉もあるが、「不完全性(バグ)のもたらすつながり」という意味もあるのかもしれない。
ダメダメはダメ
しかし、ダメダメはダメだ。
100%不完全ではなく、「不完全性」が大事なのだ。
美人の時折、魅せる隙のような不完全性。
ダイヤの原石のような不完全性。
理論整然とした勝間和代の、論理の抜け落ちのような不完全性。
それが見えるや否や、待ち構えていたかのように視線が集まる。
あるものは、応援する。
あるものは、批判に走る。
あるものは、上記の接戦をみて、期待の低い興味を持つ。
それが、不完全性とヒットの奇妙な冒険だ。
拡張性のある不完全性を内包した心臓部をつくれる人物が新時代を担う。
ボクらは、完璧じゃないてもいいんだ
話を戻そう。
冒頭で、ネガティブな反応を恐れていた私の話をした。
きっと、世の中にも同じようなことで悩んでいる人もいるとおもう。
でも、僕は、もう怖くない。
バグ(不完全性)のある記事をブログに載せるのも、もう怖くない。
ひいてはバグ(不完全性)のある人間として生きるのも、怖くない。
自分がシンデレラだとは思わないが、自分の抱える不完全性を隠さずに、守らずに、外に出して行けばいいと思っている。
不完全性は、つながり、だから。
この記事もツッコミ所満載。
ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)を抱えながら、僕は歩き続ける。
自分の言動が、他人からどう見られているか気になる人がいると思う。
そして、極端に間違うことを恐れる人もいると思う。
アンチが発生したら、喜ぼう。悪事を働いていなければ、きっとその分、ファンは増えるさ。
僕は自分を出すようになったら、ブログのアクセスは復活し始めた。
一生懸命いきる僕らはシンデレラ。
勇気がでない日々は、こんなお話もあったなぁ思い出して笑ってみてはいかがでしょうか。

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